難病母と30代シングルマザーの介護日記:介護の始まり~過去編part2~

ダブルケアラーの介護日記

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中学生~高校生

中学生に上がってからは、荒れた。

というのも、中学になる前に父の仕事の都合で転校することになった。

今までとは全く違う環境に、中々馴染むことができなかった

そんな時に仲良くなったのが近所のゲームセンターに来ていた隣町の男子だった。

ヤンキーっぽい男の子

その子やその周りの子と遊ぶようになってから、何かが変わってしまった。

丁度その時、母と父の関係性が悪くなっていった。

理由はとにかくこの土地が嫌だというものらしい。

母は私と顔を合わせる度に父の悪口をずっと言っていた。

それを聞くのが嫌で、段々と家でも自分の部屋に引きこもるようになった。

父は出張が多かったからほとんど顔を合わせることはなかったし、母とは顔を合わせたら愚痴の嵐。

学校もいじめられていたわけではなかったが、特に仲の良い子もいなかったので行くのは辛かった。

その頃は本気で

自分には居場所がない

と思っていた。

今思えばなんて視野が狭いんだと思うが、中学生の視野なんてそんなものだろう。

見ている世界が全てだった。

成績は下がり、母は益々愚痴る。

「なんでこんな子になってしまったんだ」

「私のせいじゃない。あんたが言うことを聞かないから悪いんだ」

こんなことをしょっちゅう言われていたので、ろくに会話もしなかった。

高校受験も失敗し、滑り止めで受けていた私立に行くことになった。

高校に上がってからもこの生活は変わらなかった。

正直家の中はめちゃくちゃだった。

そんな高校2年生のある日、父が脳卒中で倒れた

処置が早かったので、後遺症は残らなかったのが幸いだった。

そして退院と同時に母は、私を連れて家を出た。

離婚はせずに別居だったけれど。

父と暮らすか母と暮らすか、なんて聞かれることもなく出ていくことになったが、正直当時の私にはどうでも良かった。

母と暮らすようになってからも生活は変わらなかったし、ピアノを置くスペースはなかったのでピアノは辞めることができた。

当時は自分のことしか考えられなかったし、先が見えなかった。

看護大学を選んだ理由

そんな私がなんで看護大学に行きたいと思ったかなんて理由は単純。

県外に出て一人で暮らしたかったから。

看護師になれば給料はそこそこ貰えるみたいだし、一人でも生きていけそう。

なんとも浅はかで卑しい考えだった。

というのも、当時私はやりたい仕事なんてなかったし、どんな仕事があるのかもろくに知らなかった。

父が入院したことで、看護師がどんな仕事をしているかを知り、興味を持っただけ。

あまり遠くにすると母がついてきそうだと思ったので、寮がなく(一人暮らしするしかない)、入試科目が少ない学校(国語と数学だけはマシな成績だった)を隣県で選んだ。

しかし、運よく学校の推薦がもらえ、大学に合格することができた。

正直受かると思っていなかったし、父に至っては「大学どころか専門学校も行かないだろうと思ってた」と後から言われた。

母は「看護師なんて…」と否定的だったが、父が「何が悪いんだ」と一喝してくれた。

そうして母と離れることができて、大学生活は始まった。

とても楽しかったし、仲の良い友達もできた。

毎日が新鮮で、学校生活ってこんなに楽しいものなのかと思ったほどだ。

勉強の成績は相変わらず悪かったけれど、最後の1年だけは国家試験に向けてそれなりに勉強した。

この頃には離れたことで母とも父とも関係性はまぁまぁ回復していたし、母も見えないからか会ってまで口うるさくは言わなかった。

まぁ会えば父の愚痴ばかりだったので、あまり帰りもしなかったけど。

そして、大学3年生の時に父の癌が見つかった。

父は「手術すれば治る」と言っていたので、私もそう思っていた。

父とは用がなければお互い連絡しなかったので、その後は全て母から近況を聞いていた。

といっても母も別居中だったので、正直詳しいことは知らなかったし、私も聞かなかった。

結局私はそのまま就職した。

そこそこ大きい病院の急性期病棟

何もかもが初めてで、目まぐるしく1日が終わっていった。

余命宣告

そんな中、母から病院に呼ばれたから帰ってきてくれと連絡があった。

医師「後、もって3か月です」

???

寝耳に水とはこのことだろう。

本気で何を言っているのかわからなくて、頭が真っ白になった。

父が死ぬ?なんで?

実感が全く湧かなかった。

呆然としたままただ、淡々と話す医師の説明を聞いていた。

その後、次の日も仕事だったため、そのまま頭の中が混乱しながら帰った。

帰る前に少し父と話をしたが、正直覚えていない

とにかく帰ったら電話すると言って帰ったことだけ覚えている。

ただただ不安で車を走らせた。

帰ってから電話で父と話した。

「前から考えていたが、ホスピスに入ろうと思う」

父はそう言った。

何も言わなかったけれど、一人で暮らすには身体がキツかったのかもしれない。

一人で痛みに耐え、抗がん剤の副作用もあっただろう。

当時の私は何もわかっていなかった

入所する少し前のお正月。

私は休みがとれたので帰省し、久しぶりに家族3人で過ごした。

いつもと変わらない父。

一緒にお酒を飲んだ。

父は痛いとも苦しいとも言わず、顔にも出さずにいた。

次に会う時は入所先かな、なんて話をしていたが…

結局父と直接話したのはこれが最後になった。

それから約1か月後、次の週には帰ると言っていたのに間に合わなかった。

最後に話をできなかったことが悔やまれてならない。

一緒に暮らしていれば…

当時の自分に事の重大さをわからせてやりたい。

しかし、だからこそ母に何かあった時は私が介護しようと思った。

それが誤った選択だったのかもしれない。

離れて暮らしていたことで良好に保たれていた関係が、介護によって崩れていくことになった。

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