難病になった母
母が難病の診断を受けたのは、もう10年以上前のこと。
全身性アミロイドーシス。
最近ではアントニオ猪木さんが、心アミロイドーシスを告白しましたね。
アミロイドーシスには色々な名前がつけられていますが、基本的にはどこにアミロイドができたかということて分けられています。
アミロイドーシスについてはまた後日…
母が難病診断を受けた当時私は大学生。
元々実家を出たくてたまらなかったので、隣県の大学に進学し、一人暮らしをしていた。
この時私は、自分が母の介護をするなんて夢にも思っていなかった。
「アミロイドーシス?ってなに?」状態で、何より母自体が元気だった。
車も運転していたし、頭もしっかりしていた。
丁度同じ頃、父がステージⅣの大腸がんを発症。
全身転移していて、余命幾ばくも無いと診断された頃だったので、父の方が心配だった。
父の最期
私の父は弱みを見せない人だった。
私の前では決してきついとも痛いとも言わなかった。
自らホスピスを選択し、そこで家族・親戚に見守られながらこの世を去った。
まだ60歳になったばかりだった。
私は大学を卒業し、就職したばかり。
何もかもが初めてで、父のことも気になりはしていたが希望休など出せるはずもなく、中々帰ることができなかった。
亡くなる1か月前のお正月。
体重は減り、体力も落ちていたが、昔からお酒が大好きだった父。
一緒にお酒を飲んで話をした。
そして、この日が父と顔を合わせて話した最後の日だった。
その1か月後の朝、母から
母「そろそろ危ないかもしれないから帰ってこれないか」
と連絡が入った。
師長さんに頭を下げ、急遽夜勤を変わってもらって慌てて帰った。
車で4時間の距離。
着いたのはお昼過ぎだった。
その時父はモルヒネを投与していて、既に意識はなかった。
今までは使っていなかったが、相当痛みが強かったのだろう。
朝から
父「痛くて我慢できそうもない」
と医師に言ったらしい。
そして、その次の日の明け方…一度も目を開けることはなく息を引き取った。
父と最期に話せなかったこと。
それがとても心残りだった。
モルヒネを使う程痛みが酷かったのだろうから、そのことはしょうがない。
父の痛みが取れたのであればそれは良い。
でも…
もっと早く駆けつけていれば…
仕事を休めば良かった。
なぜもっと早く帰れなかったのか。
色々な思いが頭の中を駆け巡った。
そして、亡くなる少し前に電話した時のことを思い出した。
父「俺がいなくなったら母さんを頼むよ」
父の声はいつもと変わらなかった。
笑いながら話すものだから、
私「何言ってるの、まだまだ大丈夫でしょ」
なんて言っていたが、相当無理をしていたのだろう。
この時の父の言葉が、今も呪縛のように残っている。
父という人
父のことは好きだった。
普段は、昔ながらの寡黙な人。
お酒を飲むと饒舌になるタイプで、冗談も言っていた。
母が口うるさかったのもあるかもしれないが、父は私に対しては何も言わなかった。
だからかもしれないが、私は父と喧嘩した記憶がない。
高校生の時、一度物凄く怒られたことがあるけれど私も反論はしなかった(100%私が悪かった)。
思春期だった私は、
父は私に興味がないのだろう
と思っていたが、違った。
今だからこそだが、そう思えるようになった。
思い返してみると、父は一度も私を否定したことがない。
私は子供だったけれど、一人の人格として接してくれていた。
それが今になってよく分かる。
父と母は真逆の性格だったことも。
母という人
母は昔から子供(私)は自己の所有物のように思っていた。
今考えるとおかしな話だが、私は小学校高学年になるまで自分で服を選んで着たことがなかった。
髪の毛から靴下まで、全て母が選んで決めていた。
母「今日はこれを着ていくのよ」
と朝には用意されているのだ。
友達が着ているような服(当時スーパーラヴァーズが流行っていた)を着たいと言ったこともあったが、
母「それはダメよ」
と一言で終わってしまった。
それが当たり前だった。
傍から見ればとても良い母親だろう。
良い服を着せて、学校の小物(体操服入れなど)も手作りしてくれる。
学校が終われば手作りのお菓子を作って待っていてくれる…
しかし、私にとってはそれが苦痛で仕方なかった。
本当はキャラクター物が欲しかった。
周りの子がポケモンやセーラームーンの小物を買ってもらっているのが、とても羨ましかった。
極めつけは裁縫道具だった。
みんな学校で好きな物を頼んでいたのに、私だけ頼むことができなかった。
母がスヌーピーが好きだという理由だけで、お店から買ってきてしまったから。
みんな同じセットなのに、私だけ違う。
同級生「なんで華iroちゃんは違うの?おかしいー!」
そう言われて笑われた。
ショックだったけれど、小学生にはどうすることもできなかった。
母はいわゆる過保護だったのだろう。
一人っ子の私にその歪んだ愛情は惜しみなく注がれた。
しかし、一方で私と一緒に遊んでくれた記憶はほとんどない。
家事にいつも忙しそうにしていたから、一緒に遊ぼうと言っても断られた。
元々私が一人で遊ぶのが好きだったのか、遊んでくれる人がいなかったから一人で遊ぶようになったかは定かではないが、なにせその頃の記憶がほとんどない。
楽しかったことがないのか?と思うくらいに思い出せない。
小学生は習い事と学校の往復でしかなかった。
そして習い事も全て母が望むものをさせられた。
水泳とテニスはまだ良かったが、特にクラシックバレエとピアノ、塾はきつかった。
私はバレエよりダンスがしたかったし、ピアノよりバスケットボールがしたかった。塾に行くよりみんなと遊びたかった…
しかし、
母「こっちの方が良いわよ。それはあんたには向いていない」
と私がしたいと言ったものは全て却下された。
それでもその当時は、母に凄いと認められたくて頑張った。
バレエは教室の先生が変わったことで、辞めさせてもらえたが、ピアノは高校生まで続けることになった。
それなりには弾けるようになったが、嫌々練習しているのだから、それ以上上手くなれるわけはない。
結局コンクールで入賞できたことはなかった。
塾でも皆、誰もが知っている私立を目指すような子たちばかりで、私にはレベルが違いすぎた。
学校では100点が取れても、塾では取れない。
塾での順位は常に最下位グループだった。
そして、その度に母にため息をつかれるのが苦しかった。
母「あんたは何やってもダメね」「なんでできないの?」
こう言われる度、
私「私はダメな子。何もできないんだ」
と私の自己肯定感は下がっていった。
それでも小学生にとって母親は絶対的存在。
私「嫌われないようにしないと」
という気持ちでいっぱいだった。
しかし、それも小学生で終わりだった。
中学に入ってからの私は反抗と共に堕落していった。
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